「私たち」という定義。

新年一冊目の本はこれ。

日本の行く道 (集英社新書 423C)

日本の行く道 (集英社新書 423C)

橋本節は、相変わらず歯切れがいいのだか悪いのだかわからないが、後半に行くにしたがって、ズバズバ世相を切るタッチ、好きな人は好きだと思う。(嫌いな人は、全然読む気にもならないのではないかと)。今のご時世に閉塞感を感じている人には是非一読いただきたい。特に「××禁止令」なんて話は、「世の中なんか変じゃないの?」と思っている人にとって、「そうそう、そうなのよ!」って腹に座るはず。

本書の中で、筆者は家族が解体する理由について言及している。農村が崩壊したのは、「家というシステムから出て行ってもいい」ということを許したからである、と。

私が今気になっているのが「守るべき我々」というのはどの範囲までを差すのかということだ。
私の周辺にいる、ある程度の知的・生活水準を保有している人々は、日本で生きるこれからというものに絶望感を抱いている人が少なくない。万が一、有事などでもあろうことなら、「日本を捨てて、他国に行ってでも生き延びる」ということを豪語して憚らないのだ。


私は愛国主義者ではない。
だから「○○をするのは国のため」などという人の感覚には疑問を感じずにはいられない。
が、しかし一方で「日本から逃げ出してでも自分は生きる」という姿勢にも、「え、ちょっとそれちゃうんじゃないの?」となぜか関西弁で突っ込みを入れたくなる。

ちょっと話は飛ぶのだが、企業という組織に対する姿勢の変化にも、同様のものを感じる。

終身雇用制に守られ、昔、企業と従業員は「一心同体」の存在だった。企業がある限り、食い扶持には困らない。同様に、企業が沈没すれば、食い扶持に困ることになる。
だから会社の業績を上げることに必死になったし、会社の中での悪いことには目をつぶるケースも少なくなかった。(食品業界における不祥事は、これらの社会の変化についていけず、内部告発を受けて発覚した事例が多い)

しかし、今、会社は単純に「お金を稼ぐ場所」「キャリアを積む場所」であり、つぶれるときにはつぶれるのだから、自分の食い扶持は自分で稼ぐし、会社の先々には関心を抱かない。そんな人種が増加している。そして、それが企業の離職率の高さにつながっている。

会社という組織から離れようとするとき、人が考えるのは「この先この会社にいても、私にはどうしようもない(もしくはどうにもならない)」という絶望だ。自分が所属する場所に対する愛着と「この問題をどうにかして、それでもこの場所にい続けよう」という意思が、薄らいでいるのである。

国・企業・家庭。これまで人を定義づけていた、組織に対する帰属意識が全体的に薄らいでいる。

「所属感」とでも言うべきか。

企業に所属することのメリットは少なくない。
社会のことを全く知らない、アホ学生だった人間に、ビジネスのルールのいろはを教え、会社の責任で失敗をさせる。組織の中で、自分の意思をどう貫くかを学ばせる。そして一人前の社会人になるまで、大きな目で見守る。
これはもう、いくらインターネットが知識の高速道路を作ろうがなんだろうが、会社という組織の中で、ある程度人にもまれなきゃどうにもならないことだ。

フリーランスで仕事をするというあり方にあこがれも抱くのだけれども、ちょっとだけ違和感をおぼえるのは、ある程度稼いでいるフリーランスが、その後進に対して「教育」を施す義務を放棄しているのではないかという点だ。自分が稼ぐだけ稼いで、誰も育ててないなんてこと、ないだろうね?
もちろん、意識的にそういうことをしているフリーランスの方も存在していると思うが。
(これについてはフリーランスでお仕事をなさっている方の異論を聞いてみたい)

で、企業にも、国にも、所属感を抱かない人に思うのは、「君、その組織に育てていただいたってご恩を忘れちゃいないだろうね」ということだ。

もちろん、大量生産のロボット人間みたいなものをとりあえず育てて、自分たちの都合で「使って」、あとはしらなーい、という会社やら国やらに就職もしくは誕生してしまったあなたは、その会社なり国なりを踏み台にして、その後は自分なりのキャリアをはぐくむ道を選んだほうがいいだろう。

でも、少なくとも、あなたが新卒で正社員として入社した1社目の企業は、少なくとも学生のひ弱な自我を壊して、社会人としてひとり立ちできるだけの知恵と能力と経験とを与えてくれたのではないだろうか?
(あなたがもし転職に成功したのだとしたら、なおさらそうなんだと思う)
(ただし、最近は企業の質も落ちているので、その水準に達しない職場環境におかれている人も多いのだと思う)

私個人のことを言えば、一社目では懇切丁寧に社会人のいろはを教えていただいたし、それ以前にさかのぼれば各種奨学金さまさまのおかげで今の経歴を作らせていただいているというのもあるので、少なくともそのご恩は返さなければならないんだろうと感じている。
(日本育英会はもちろん、大学の奨学金×2、地方の商社の奨学金×1、出身地区の奨学金×1をいただいている。)

企業が意識してそれをやったのか、あなたがついた先輩が偶然そういうことを考えるタイプの人で、偶然教育を施してくれたのかはわからない。
ただ、組織に育てられた人間ならば、礼儀としてその組織へのご恩を、忘れないでいてほしいのだ。

ご恩を忘れる人間ばかりだと、「これ以上人材育成に金をかけても、すぐ離職されちゃうし、いかんともしがたい」という結論に陥る企業が増えて、大量生産規格人間を育てる程度に甘んじる風潮が全体として強くなるだろう。

そして同時に、いままでの国・企業・家族(若い人は学校)という組織以外の、所属感を持てる場所というものが、求められているのではないかとも、感じている。

キャリアは一本である必要は無い。複数を同時に走らせればいい。所属する場所もまた然り。

あなたの所属する場所はどこだろうか?そして、どこまでを守るべき場所と考えているのだろうか?それは正しい認識なのだろうか?

なーんてことを、お正月、親戚(これもまた難しい「我々」である)とお酒を飲みながら考えましたとさ。