Webと出版の狭間で

仕事を通じて、ネットショップの人たちと接する機会が多い。ある程度の売り上げを上げている名物店長みたいな人々だ。彼らのバイタリティーだとかには、本当に感服させられてばかりいる。そして彼らと接しながら、出版の仕事をしていると、そのネット周辺の人たちと出版屋の、コンテンツに対する考え方の差異というものが、いやでも目につく。

たとえば、言葉に対する感覚。誤解を恐れずにいえば、ネット畑の人たちは、言葉に対する感覚がゆるい。紙媒体は、誌面という限られたスペースに、文字なりビジュアルなりを載せて、その情報自体を売ることが仕事だ。
自然、何度も、何人もの人が携わって、校正をするし、限られた紙幅を使うわけだから、どれだけ少ない文字量で、効率的に、印象的に、物を伝えられるかが重要になる。一度紙に刷られた文字は修正できない。一文字の間違いが、裁判を引き起こすこともある。
決算発表などに行くと、紙の決算資料の束をもらうことがあるのだけれど、やはり後から改変ができないという意味では、紙物の需要はなくならないな…とその重さを通じておもうわけだ。

一方ネットの人は、写真も文字も、後からいくらでも修正が効く。ある程度出版社のワークフローを取り入れているネット屋さんは、きちんと校正をしているのだと思うのだけれども、その感覚が曖昧なサイトは、誤植・日本語の間違った表記等々、突っ込みどころ満載の文章の嵐だったりする。さながらバーチャルVOWだ。間違った日本語を提示していても、すぐに修正できるから、問題はないのだろうけれど。でも、間違った日本語、不自然な日本語は、そのサイトの格を下げる。

デザインに関しても、素人ネットの人は、弱い。それでも物が売れればいいのだろうけれど、字間・行間・サイトのカラーリング、フォントサイズ等々、綿密な設計の元に作られていないサイトは少なくない。
(もちろんブラウザやディスプレイなどの環境に左右される部分が大きいから、どうしようも無い点もあろう)

さまざまなコンテンツにおいて、デザインなどの綿密な設計が何をもたらすか。ルールを決めて本を作ることが、いったい何につながるのか。
それは「テイスト」であると思う。たとえばビジネス誌であれば、ビジネス誌っぽい文体・写真・デザイン・フォント。そして、「今」っぽい雰囲気。それらを平面に表現する。そのために編集屋やデザイン屋さんは血眼になっている。
PC雑誌らしい装丁…手芸の本らしい文章…ガーリーな雑誌っぽい写真…。こういう、言葉を超えて伝わるものは、センスがある人には、無言でも伝わるものだけれども、継続したプロジェクトとして多数の人が関与して製作するのであれば、綿密な設計によって、製作に携わる人にその方向性を示さねばならない。さもなくば、テイストがてんでバラバラのコンテンツになってしまうの。昔「初めてチャレンジする漫画」とかいう本で、ゴルゴ13の顔が赤塚不二夫の書く胴体にくっついているというイラストが描かれていた。ギャグ漫画なら、ギャグ漫画っぽいイラストで統一しなければならない。劇画ならば劇画っぽい絵で統一されていなければならない、そういうことを示しているイラストだった。その過ちを犯しているショップサイトがどれだけ多いことか。そこに気がついてしまえば、後はそこから恣意的にどれだけはみ出すか、だとか、そういうことが面白くなってくる。
敢えてヘビメタにボサノバ合わせて面白がってみたりだとか、ね。

ネットショップは物を売るのが目的だ。だから物さえ売れればいい。デザインや文章にこだわる必要もなかろう。
一方、コンテンツ屋は、コンテンツ自体を売る。情報と、それを包む皮膜とが、完璧な調和をもって訴えかけることによって、読む人に対価を支払ってもらうのが役割だ。私たちが作るものは、コンテンツ自体が商品なのだから。

もうひとつ上のネットショップにならんとするのであれば、商品だけを売るのではなくて、「このサイトを見ていると、○○な気分になれる…」という「テイスト」まで、お客さんに提供するぐらいのレベルを、目指してほしいものなのである。>特にFさん!

※ネット店長の勉強会で話したことを、簡単にまとめました※
雑誌の作り方の参考本

編集デザインの教科書 改訂版 (日経デザイン別冊)

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ターゲット・メディア主義―雑誌礼讃

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