名前どろぼうとカンバン

私が所属している編集部では「出張校正」という、昔ながらの仕事のやり方をしている。締め切りぎりぎりまで校正をするために、印刷所の現場(今だとDTPオペレーターさんがいる隣)まで編集部が出向いて、コツコツと校正をするのだ。取材相手の名刺からなにから、資料一式を印刷所に持っていかなければならないため、私はアンチ出張校正派なのだが、なかなかこれが周囲の理解を得られない。印刷所の方には、いつもいつもご迷惑をおかけしてばかりいるので、本当に頭が上がらないのだけれど、やはり仕事は自分の場所でやるほうが何かと効率的だ。

とはいえ、印刷所の現場に足を運ぶといろいろと見えてくるものもある。DTPオペレーターさんの動きや感情。印刷所内の仕事分担、営業と現場の関係、印刷所がやっている商用印刷以外のお仕事、他社媒体の進行表…。そんなものをチラ見しながら、肩身が狭い思いをしつつ、月末は出張校正に明け暮れる。

そんなある日(というか昨日)、印刷所で、某老舗音楽雑誌の刷り出しを発見した。高校生のころ読んでたな〜。懐かしいわ〜、と思って立ち読みしていたら、そこにその雑誌の休刊の顛末が書かれた記事を見かけてしまって、わなないた。

わー、こんなくだらない理由で雑誌の(事実上)廃刊とは!

名前付け替えるといっても、これでは実質的には新雑誌創刊みたいなものだ。しかし、雑誌のカンバン無しに、同じ編集部員が新しい雑誌を立ち上げたとして、果たして読者はついていくものなのだろうか…。同様にアーティストも取材に協力するものなのだろうか…。ひところの音楽誌には、タナソウとか、山崎洋一郎さんとか、市川哲史さんとか、羽積秀明さん(…ん、ちょっと違うかな。でも高校時代の私の中ではかなり熱い編集者だった)とかのような名物編集長だとかがいたけど、最近そんなカリスマ編集長なんているのかいな。そもそもカリスマ編集長って必要だろうか?最近は音楽雑誌自体ほとんど講読していないから批評する資格も無いけれど…。(yanokamiが乗っているsound&recordingだけは買った)

ときに編集者ってやつは、自分の名前で仕事をしている気になりがちだが、実はその仕事は会社のカンバンに支えられているところが大きいと、私は強く思っている。そう思うのは、自分が前の職場で取次を回る仕事をしていて、出版社の格でここまで本の取り扱いが違うかね、これぞ真の格差社会だね、と思えてしまうほどの、取引状況をまじかに見てきたからだ。たとえ、一文字一句すべてが同じ内容の本を、2つの版元が同時に出したとしても、出版社の格で、取次が仕入れる部数というやつは、本当に桁違いなのである。だから、版元で働く人間は、カンバンを守らねばならないし、自分が犯した失態は、カンバンの信頼を損なうことであるということも、心しておかねばならない。(たとえば納品の遅れや、事故、発売延期などの流通的な側面から、取材〜誌面作りにかかわる一から十までの工程すべてに関して、だ)

万が一、カンバンの名前を編集者の名前が乗り越えてしまったときは、その人はさっさと編集なんて裏方の仕事はやめて、自分の名前で文筆業なりなんなりに従事すればいいのである。私は自分の名前を売るために雑誌を利用する編集者はかっこ悪いと感じる。書く人を光らせてこそ編集者ではないか。読む人を楽しませてこその編集者であるが、ある一定の踏み越えてはいけない線というものは間違いなく存在する。編集は飽くまで影の仕事であるべきで、自分の虚栄心などを満たすために編集の仕事をやるなんざ言語道断だ。私は、編集屋としては、永遠に無名の、いい仕事をする、某であれれば、それでいい。

…なんだけど、一方で編集者の仕事ってやつは、会社の枠からどれだけはみ出して、好き放題やるかってところにも価値があるからバランスをとるのが難しい。サラリーマン然とした編集者ほどつまらないものは無い。はみ出してしまう人は、うまくいけば幻冬舎見城徹さんのようにもなれるが、うまくいかなきゃ過酷な下請け編集プロダクションもしくはフリーライター止まりだろう。

それにしても、最近名前泥棒が跋扈していることといったら!マイミクのTAG君から教えてもらったのだが、ネットコミュニティーの草創期を作ったサイト「オルトアール」も名前泥棒に名前を盗まれてしまって閉鎖してしまったようだ。船井総合研究所のURLも一時のっとられていたみたいね。

たとえばあなたの某という名前が無くなっても、それでも旧某という名前の人から発せられる言葉を読めば、言葉を聴けば、誰かがその言葉を求めずにはいられなくなるような、そんな本質的な生き方が理想なのだと思う。そういう生き方をすれば、たぶん名前泥棒も怖くは無いはずだ。さて、自分はそんな言葉をつむぎだせているかどうか。

やはり、ブログとはいえ、書くときは命がけじゃなきゃだめ、だな。