モンゴル人襲来に思う。

リア充すぎて、ブログを書く余力が全く無い。

近況としては、ついにモンゴル人が私の職場にも襲来した。バットル、モンホー、サラという20代前半の3人。今回のモンゴル人3人組は、日本語が話せるので、日本語とちょっとの英語を織り交ぜつつ、仕事をしている。
モンゴルからシステムを学びに日本へきた彼らは、とにかく素直で、まじめ。

「カノさん、アホってどういうイミですか?」と、おー、そんなこと考えてもいなかったよ!ってことを、さらりと質問してくる。
何かを言えば、はいと答えて一生懸命やる。
素直だ〜。

だから、なぜ、今の日本人がこんなにひねくれてしまったのかということを考える。
大きな原因は、学生時代〜社会人8年目ぐらいの環境にあるような気がしている。

日本の大学は、とことん遊びを覚えさせられる場所だ。
私が学校で勉強したことって、遊ぶことととお酒を飲むことと断言してもいいぐらいなんだけど、この回り道をしなければ、今頃もっとまじめで素直な人間に育っていたんじゃないかなと思う。
社会人になっても、遊ぶことばかり教えてもらってきたような気がしている。
もちろん、遊ぶことは悪くは無いのだけれども、実は、そろそろ遊ぶことに飽きてきている自分を感じるのだ。お酒の時間は極力減らして、楚々と生活して、楚々と働いて、運動して、淡々と創作的なことをする。シンプルなサイクルに、そろそろ移行したいと体が求めている。

また、素直に人の言葉を聞けない思考回路を、私たちに植え付ける原因も、東京にはたくさんあって。
なぜなら、東京で暮らすことは、「簡単に人を信じてはいけない」ということを、身をもって学びながら生きることだからだ。
人をゲームの駒のように動かそうとする会社だとか、親しげな顔をして近づいてくる宗教の勧誘だとか、キャッチセールスだとか、若者から搾取しようとする年長者だとか、本当に好きだと信じていたのに、目的は別のところにあった恋人だとか。

道端に人が倒れていたって、「ああ、また酔っ払いが倒れている」と通り過ぎる自分に、いつも嫌悪感を抱きながら、それでも声をかけようという気にはならない。
見たものを、見たままに判断すると、自分の身に危険が及ぶ。だから、見たまま判断は、しない。できない。

うーん、病んでいる。ひねくれている。しかしそうでもしないと、都会ではだまされる。怖い。危険。

一方ワタクシ。
転職してこのかた、本当のことを淡々と伝えるという訓練を、毎日の仕事を通じて行っている。それでも、自分をよく見せたいだとかという、私の中に残っているひねくれた部分が足をひっぱることもあるけれども、繰り返し繰り返し、一言を大切にして、仕事を続ければ、矯正できるような気もしている。

リア充すぎて、睡眠時間は短く、部屋は片付かず、土日も無く働いているような状況なのだけれども、体はぴんぴんしていて、心もおおむね健康。
そんな私の現実は、決して仕事の内容だとかによって、幸せが決まるのではなということを表しているように思えてならない。
大事なのは自分がその仕事に対し、どのような価値を抱き、どのようにその仕事を楽しもうかとする、姿勢と理解だ。

ということを、モンゴル人の仕事ぶりと、仕事に悩むRの姿を見てみて、思ってみた。ということで、この文章はRへささげるものにしました、今。

おしまい。