熱いね

ダイスケ氏の指摘を聞いて「運動」と「表現」は違うことを知る。
違うけど、限りなく近いものなんだろう。


>作り手は映画館で上映されることを前提に映画を撮っているわけですよね。
>だから映画館に断られた時点でこの映画の生命線は断たれているといっていい。

この映画は「表現」なんだろうね。
「運動」だと思っていたの。これは私の下調べ不足。お恥ずかしい限りで。

>だって、ひとつの雑誌が圧力で休刊に追い込まれるような事態が起こったとき、「ウェブ媒体にすればいい」という発想はやっぱり違うでしょう。

おっしゃるとおり。

でも圧力で休刊になったら、その後ウェブ媒体になんてならないのではないかと思います。

どんな圧力があろうと、最終的に休刊なり自主規制なりを決断するのは、出版社の経営者なんですよね、結局。何かと何かを比べて、自主規制するに利有りと思って、悩みに悩んでそう判断するのだと思います。

だからね、そういう人たちに、「しかし君らは自由を守るために××しなければならぬ」と、「外側の人」が言うのはおかしいと思うのですよ。
「出版社の中の人」が、自主的に「自由を守るために我々はどんなことも覚悟している」というのなら分かるのだけれども…。外野がどうこう言うのってどうなんだろう?
君の会社が大変なことになったら、僕が食わせてあげるよ、ぐらいのことを言うことができる人ならばいいのですが…。どうも「覚悟してジャーナリズムに徹せよ!報道の自由を守れ!」と口を出すのは、無茶だと思うのです。

前のエントリーは、そんな内田さんに対する歯がゆさというか。

もろもろご指摘、ありがとうございます。おかげで噂の映画が見たくなりました。うーん、どこで見ればいいんでしょうね…。