耳を揃えて渡したい。

今月もおおむね校了。たぶん。あとひとふんばり。

私たちがお金をいただいている「情報」ってやつは、全くもって形が無いものだ。雑誌の編集という仕事は、その形が無い情報を、紙に固定化して、売るご商売。

たとえば人が話した言葉を、文字にして、読みやすくして、キャッチコピーをつけたり、それらしい写真をつけたり、レイアウトをしてもらったりする。
データ化された情報を、最終的に印刷所が印刷する。その後、運送屋さんや、取次、倉庫の人、等々の手を経て書店に並ぶ。印刷所から出た本の流れは非常にタイトだ。取次が、ラインを組んで、書店ごとに仕分けて、たくさんのトラックが、本を日本全国に流す。

その前段階の印刷でも、製本でも、たくさんの人の手を、タイトなスケジュールで通り抜けていくことになるから、ちゃんと締め切りどおりに仕事をしたいんだっ!

……でもね、でもね、
かっこいいタイトルが最後まで考え付かないだとか、
原稿が書けないだとか、
写真がいいのが見つからないとか、
広報の人とかけひきしているとか、
文章の裏づけが取れないからとか、
筆者がへそを曲げただとか、
そういう理由、多々ありまし…て……。

そんなわけで不完全な状態で、データをお渡ししなければならないことが多くて、校正の時期はいつもいつも心が痛むわけですよ。
でも、不思議なもので、印刷所の営業の方も、こっちが「そのスケジュールでは、いくらなんでも無理なんじゃないのか…」という出版社側の要望を「できます!」って言って飲むんだからすごいというかなんというか…。現場の人が泣くのをとめるのは、営業マンの言葉ひとつなのだということを、最近いろいろと考えているところ。(あ、デスマーチの話に戻ってきた。スパイラル)

工業化によって、製品を大量に生産が可能になったけれども、もともと自然から生じたものや、無形のものを、大量に集めて、ミックスして、生産する過程には、必ずどこかにひずみが生じる。
たとえば、食品。同質の鶏肉を大量に作るために、ちょっと想像したくないような、お肉生産ラインだとか鶏舎だとかがあるわけだ。体にいいと言われている、あの調味料は、どうみても化学プラントみたいなところで、作られているわけですよ。非自然的に。

自然が生成した原料は、性質が一定で無いものばかり。それを一定の枠にはめて、同じようなものを作るというのが工業化の本質。
近代化とともに出てきた「契約」という概念の登場が、均一な品質のものを大量に生産するための、社会的な後ろ盾になった。それは「約束の完成」の概念を、共有するということでもある。

情報もやっぱり同様で、一定の品質のものを作ろうと思っても、原料となる原稿や、取材の内容というものは、その誕生の背景によって品質が全くまちまちだ。それを同一の商品化できるだけの品質にしようとすると、どこかで、誰かが悲しんだりとか、苦労したりとか、しなきゃならない。
(あまり一般的には知られていないかもしれないけれど、文章が書けない実務家の人が書いたビジネス書は、その多くがゴーストライターの手によるものだ。)

自信を持って「耳を揃えてお渡しできる」ような、仕事をしたい。でも、何よりも自然の一部である(気持ちにむらがあって、常に変化する存在である)人間相手にご商売をし続ける限り、揃えるべき本当の耳ってどこにあるんだろう、って考え続ける運命なのかも、しれない。