情報過剰社会のゴミ

GWにいらないものを掃除した。掃除するたびに、ビニール袋に2袋くらい捨てなければならないものが出てくる私の部屋。今日の午後は春物の洋服を買いにいこうと思っていたのだけれども、2袋ものゴミ袋を見て、ぞっとして、やめた。ヨガとマラソンのおかげで少し体重が減って、サイズが合わなくなっていた服も着られるようになりつつある。もう着れないと思っていたあのスーツ、クリーニングに出して、仕事着として着てみよう。冬物をしまう前に、全部デジカメで撮影して、一覧表を作ろう。そうすれば、来年必要になるべき洋服が、事前にわかって無駄な買物をしなくてすむようになるんじゃないかな。物が過剰に溢れていて、本当に必要なものがなかなか見つからない。
一方で、情報過剰な昨今。mixiとかmyspaceとか、いらん情報ばかり耳に入ってきて、最近辟易している。自らこの情報を得ようと選び取ったはずなのに、いつの間にか、そこに広告という名のノイズがやたらまとわりついてくるの。ときにはそういったWebの空間から伝わってくる有益な情報もあるのだが、結局のところ本当に有益な情報というのは、人の口づてにしか伝わってこないような気がしている。
(いや、Webだって97年ごろの黎明期は、非常にエキサイティングな空間だった。Webという道具を使って、どう楽しもうかという気概に満ち溢れていたサイトがたくさんあった。今となっては、テクノロジーが進歩しすぎて、その気概すら感じられないような。エンターテインメントとしてのWebは、不自由だったあのころが一番面白かったような気がしているのだ)
何が悲しいって、自分が好きな哲学者の方が亡くなっていたということに、数ヶ月間気付かず、本屋の棚で「追悼○○さん」というPOPを見つけて、はじめてそのことに気が付いたということ。あれは非常に衝撃的だった。なんのためにインターネットやってんのよ、私。(あのころは忙しすぎて、新聞も読めなかったんだよねぇ)。あと、好きなバンドの新譜が発売されていたことに、全く気が付いていなかったというのも悔しい。
こっから先は情報化社会というよりは、情報過剰社会になるんだろう。インプットが過剰になりすぎると、人は全ての情報をシャットアウトしたくなる。(今の私はインターネットを投げ出したくて仕方ないくらいの気持ちでいるくらい)そのとき、フィルタとなりえるのはグーグル様なのか、それとも別の人々なのか、わからないけれど、フィルタ役が必ず登場するだろう。で、情報の受け手に関しては、情報に振り回されない心の芯と、Face to Faceの関係をより重視する社会になるように感じている。

蛇足だけど、近い将来、購買商品には全てICタグが埋め込まれるようになって、携帯電話でチェックすれば、自分ちの冷蔵庫の在庫から、本棚の本、洋服ダンスの服の在庫まで分かるようになるんじゃないかなぁ、と妄想している。そうすると、一般消費生活のありかたも、商売のあり方も、がらりと転換するような気がしているんだ。生活に本当に必要な情報って、そういうことなんだと思うのだけれども。