Memento mori

「当面本はなるべく読まないです」といいつつなんですが、やっと読んだ、「DEATH NOTE」。

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

実写の映画にもなった、ジャンプに連載されていた漫画。作画は「ヒカルの碁」の小畑健。当然絵は美しく、主人公のライトくんにおおむね女子は萌え〜となる。
名前を書かれた人は死んでしまうという、死神のノートをめぐる物語。だが、あたしゃどうも最初から、最後まで納得いかなかった。なにがってさ、死の描写が、ものすごくあっさりなわけよ。みんな簡単にぼろぼろ死んじゃう。(ネタバレになるので、まだ読んでない人はこれ以降の文は読まないほうがいいと思う)。

何がショックって、某メインキャラクターが途中で超あっさり死んでしまうのだ。かなり思い入れある読者も多いキャラクターのはずなのに、彼が殺された次のページでは「××の密葬も終わって1週間すぎましたなぁ」と、超淡々とストーリーが続く。やー、漫画とはいえ、いいのかなー、この死の描写の簡略化、というのが、一番衝撃的だった。

死と生の間に、どこかで明確なラインを引くことなんてできないはずだ。即死と言われる状態だって、心臓が止まる死から、肉体がこの世から無くなって、さらに人々の心から消えていって…という一連の流れを経るわけだ。死に線を引くことができるわけがない。ないのだけれども、この漫画では、死を一瞬のものとして表現してしまっている。

もっと人が死ぬのって、面倒だし、重いし、引きずるし、時に可笑しい話しだし。私の周囲は短命の人が多かったこともあって、おかげさまで私はひねくれた性格になってしまったが、同時に、平均寿命なんて意味は無いし、突然それは訪れて、私が気付かないうちに人生に幕を引いてしまう、そんなものなのだと思うようになった。
だから、生きる意味みたいなものを考える機会にも恵まれたのだと思う。都会は死を隠蔽する。一時そのことを忘れた気分にはなれる。道端にネコすら死んでいない。だけど、死から遠ざけられた暮らしというものは、一時の安寧は得られるかもしれないけれども、はてそれでいいのか、という気もする。
少し振り返ると、周りに身近な人の死を体験したことがない人が、とても増えている気がする。年齢的な問題もあるのかもしれないけれど、既に祖父母は他界していて、他の家族は健康でっていう人が周囲には多い。私は周囲の人の早い死のおかげで、面倒なものももたくさんいただいた。だが、そういう一見理不尽に見えるような、だけれども自然な死に接したことがない人々も、もしかしてそのせいで何か心が蝕まれている部分があるような気がしてならないのだ。
だって、仕事で無茶苦茶なこと言う人とか、妙に自信ありそうに振舞っている人とか、大人子どもな人って、自分がこの先必ず死ぬとは、これっぽっちも考えていなさそうなんだもの。(とおもう私が浅はなのかなぁ)。

昔は、「明日のジョー」で力石徹が死んだら、ファンがお葬式あげるようなことがあったわけだ。それはそれでいかがなものかという意見もあると思うけど、「DEATH NOTE」、あんなにあっさり人殺しちゃいけませんよ。と素直に思った。というか、それを子どもに読ませるのに、私は抵抗がある。
DEATH NOTEは大量殺人兵器です」みたいなセリフがあったけど、私は思う。「DEATH NOTEという物語自体が大量殺人兵器を生み出すんじゃないかね」。考えすぎかな。