阿佐ヶ谷編集者のキャリア

せっかくの機会なので、これまでの仕事をまとめてみました。

とにかく文章を書いて、雑誌を作る仕事で身を立てたくて、仙台の片田舎から、東京に出てきたわたくし。

そんなわたくしの出版キャリアは、大学のそばの編集プロダクションでのアルバイトからスタートしました。時給600円。明らかに最低賃金法違反な会社で。ボロアパートの1室に、月給15万円アンダーの社員さんが2、3名。
だけど仕事は面白かった。別冊宝島のデータ取材(大蔵省の官舎に「家賃いくらなんですか?」と突入したり)、AERAのデータ取材、東京1週間創刊時の企画立案…。むちゃくちゃな仕事が多かったけど、学生にとっては刺激的で、時給600円でもまったく苦にならず。

で、正社員で入社した、株式会社アスキーでの営業のお仕事。これは取次営業で、年間100点ぐらいの新刊の配本を考えたり、長期セットのオペレーションをしたり、営業のシステム(ほこりくん)を作ったりと、まぁいろいろ仕事をさせていただきまして。短い期間でしたが、本当に勉強になりました。(親会社がCSKからユニゾンキャピタルに変わったときの社内の雰囲気とか、そっちのほうが勉強になった気もしていますが)

営業の仕事のときは、取次の倉庫に行くのが好きでした。取次の倉庫は、いかにも「現場」。青いつなぎの作業服を着たおじちゃんたちがたくさんいて、毎日毎日本を出荷しているわけです。当時、その作業の多くは、人間の手作業でした。私は、おじちゃんたちのところに、注文書持って行って、世間話をして、世間話のどさくさにまぎれて、注文をもらうのがお仕事。「あの新しい書店はどうのこうの」だとか、「競合の出版社の新刊の動き」だとか。だいたい、おっちゃんが缶ジュースとかおごってくれるんだよね。あの倉庫の、独特の雰囲気、今思えば好きだったんだな。

20代の中盤で、株式会社商業界に転職しました。流通専門誌の編集職で、たくさんの人と会って、話を聞いて、本を作り続けました。
ビジネスのビの字にも興味が無かった女の子が、世界経済や企業経営のことにまで考えを及ばせることができるようになったのは、ここでのお仕事があったからこそであると、感謝しております。何が人を育てるって、仕事と子育てだと私は信じてやみません。

いや本当に楽しかったんだ、この10年。
ありがとう。