日本の「食」は安すぎる 山本謙治:著

blog「やまけんの出張食い倒れ日記」でおなじみ、やまけんさんの最新刊です。センセーショナルなタイトルなこの本が、このタイミングで発売されたということは、ある意味奇跡のようにも思えます。

日本の「食」は安すぎる 「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書)

日本の「食」は安すぎる 「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書)

皆さんは自分の食べるものに、どれだけの関心を払っていますか?おなかがいっぱいになれば、何を食べても平気ですか?一食にいくらかけていますか?その値段で、本当に安全・安心なものが食べられると思っていますか?

この本を読むと、いかに自分たちが、食について無知かということを感じさせられることでしょう。本当のハムの作り方、野菜の流通、卵の値段、しいたけの種類…。

おいしいものを食べたいという欲望だけは一人前にもっているのに、では一体「おいしい」とは何なのか、私たちはその定義も曖昧なままです。この食卓に並んでいるものが、どのような過程を経て、今ここにあるのか、ということについて、私たちは知識を持ち合わせていません。
お金さえ払えば、テーブルであんぐりよだれをたらして待っているだけで、おいしいものを食べさせてもらえるはず…。ありえるわけが無いはずなのに、都市生活者は、そんなことにも気づかない。

私の世代になると、生まれてこの方、マンション暮らしで、庭がない生活をしている友人というのも、少なくはありません。
そんな人たちと比較すると、小さいながらも庭があって、そこでネギやトマトや柿やすももが採れた我が家は幸せだったんだな、と改めて思います。幼稚園のころの、芋ほり大会や、田舎からもらってきた採れたてのきゅうりを食べた記憶。採れたての卵の殻に穴を開けて、そのまま中身を飲み込んだなんて記憶が、どれだけ贅沢だったことか、と思うわけです。

近代化の進行とともに、第三次産業が発達し、都市生活者が増えることによって、私たちは土のある暮らしから遠のいてしまいました。生活はとても便利になりましたが、同時に私たちは、自分たちの命を支える「食」も手放しています。現在の需給のバランスが崩れた瞬間に、生活を支える「食」さえもコントロールできなくなることでしょう。そんなところまで、私たちはきてしまっているのです。それでいいのか?
筆者は、消費者が、消費者として声をあげることにこそ、これからの日本の食を支える道があると主張しています。
まずは「食のあり方を意識する」こと、そして「意識した上で消費すること」が、これからの日本の食を支えるのです。

今「食育」という言葉がもてはやされています。しかし、現状ではメーカーの広告予算を消費するためだけに、言葉だけが独り歩きをしている状態なのではないかと、私は感じています。本当に子供たちの未来を支える食の教育は、上っ面の部分からは出てきません。情熱を持った大人が、愛情をもって接することでしかなしえないのではないでしょうか?

沈丁花の花が香る季節になりました。都会にいても、季節を感じる手段はあるのです。小さなところからでかまいません。まずは意識をすること、そしてひとつずつ積み重ねていくこと。そんなことによって、私たちは、正しい命のあり方を、取り戻していく必要があるのではないでしょうか?